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倉俣史朗さん、お元気ですか?



人は死んでも死なない。

という、

なんだかへんな確信が、

ぼくにはある。



何人もの肉親、友人などの死に立ち会っているが、

そのたびに、そう思う。

そう感じる、と言ったほうが正確だ。


なんていったらいいのかな。


死とは、今いる部屋からとなりの部屋に、

ドアを開けて入る、

その程度のことなんだという気がしてならない。



肉体は死んだら消滅するかもしれない。


でも、その肉体を司っていたもの、

きっと

「こころ」

とでも呼ぶものは、

なくなることがない。



それこそが、生命の本質なのだ。



ぼくらが呼んでいる「死」という状態は、

たしかに一時的に、自分と相手との関係性が

「圏外」

になる。


でもたぶん、またいつか

「圏内」

になるのだ、きっと。



そう感じて生きているから、

ぼくにとっては、

死とは、永遠の別れではない。



だから、

父が亡くなり、納棺のときに、

ぼくは、


「とうさん、元気でね」


と言った。



周囲は、悲しさのあまり

ぼくの気が違ったのだと思ったそうだ。



そんなぼくだから、


「倉俣史朗さん、元気ですか?」





そんなぼくだけど、

人が亡くなったときはやはり悲しい。



一時的に「圏外」になるからだ。



ただそれは、

伴侶、息子・娘、肉親あるいは親友などが、

仕事、結婚などで長期に海外へ行くことになり、

なかなか会えなくなる、そんな感じかな。




その、長い間「圏外」だった倉俣史朗さんと、


2月3日、つながった。



kurasott.jpg






久しぶりに、倉俣さんのこころに触れることができた。


あたたかかった。


生きる力を、くれた。


やっぱり、人は、死んでも死なないよ。




倉俣史朗さんとの出会いは、こうだった。



ぼくは以前SONYに在籍していたが、

どうしても農をやってみたくなり、

退社し、

八ヶ岳へ移り住んた。



そこで知り合ったN君が、倉俣デザイン事務所のアルバイトをやっていた。


N君は、八ヶ岳のぼくの家の本棚から

わら一本の革命

という本を見つけ出し、こういった。



「倉俣さんも、この本を読んで感動されていました」



その言葉を聞いたとたん、

倉俣さんとはいつか繋がる、と、感じた。



世界的なデザイナーと繋がる、なんていうことは不遜だが、

そう感じてしまったものは仕方がない。



その後、N君は倉俣さんにぼくの話しをしてくれたそうだ。


倉俣さんも、ぼくに興味を持ってくださった、という話しだった。



N君にアポイントメントを取ってもらって、

六本木の倉俣デザイン事務所に伺えることになった。



ああ、まさしく倉俣さんの秘書だなぁ、

と感じられる方に招き入れられると(伊東史子さんです)、

ご自分のアトリエと思われる部屋に、倉俣さんはいらっしゃった。



お会いしたとたん、

またもや、まったくもって不遜だが、

初めてお会いしたとは思えない感覚が湧き上がってきた。



ニコニコと、笑顔で、


「加藤さんは、お飲みになれますか?」(酒を飲めるか、ということです)


「はい」



じゃ、と、缶ビールを冷蔵庫から出して手渡してくださった(バドワイザーだったかな?)。




初対面で緊張していたぼくは、

でも、

その倉俣さんの気遣いで、一瞬にして融けてしまった。




倉俣さんは、

「わら一本の革命」を読んで感動したこと、

自分もやってみたかった、ということ、

事務所の人間みんなに、本をプレゼントしたこと、

などを話してくださった。


そして、ぼく(加東)が、大企業を辞め、

実際に自然農法をやることに踏み切った勇気をたたえてくれた。



とても静かに、でも常に鋭く、

そしてその鋭さを包むような笑顔、

彼の一挙手一投足が、

ぼくにしみ込んでくるような感じがした。

いや、同時に、

ぼくは全身をスポンジのようにして吸収しようとしていた。

この上なく、至福のときだった。



その後、ご自分の試作品をいくつか見せてくださった。



そのどれもが、この世のものでありながら、

どこか、ちょっと目を離すと消えてしまうような、

そんな感覚があった。



いつまでも永遠に残ってほしい、

と願うのとは真逆だ。



潔い、という言葉は、

倉俣さんのためにある、そんな感じだった。



だからといって、求道的にはけっしてならない。



モーターと電池が入っていて、

先がくるくる回る、

「自動スパゲッティ用フォーク」


「ほとんど読めないような、時計」

など、ウイットにとんだ作品をご自分で手にとって、

楽しそうに説明してくださった。



あっという間に時間は過ぎ去り、

アポイントの時間は終わった。



ほんとうに、融けてしまいそうな、

いつまでも味わっていたい感覚を振り切るように、

ぼくは倉俣デザイン事務所を後にした。




その後ぼくは、八ヶ岳の農生活を終え、

東京に戻り、蕎麦打出張業を始め、

「蕎麦打」

という本を書いた。



その出版記念パーティーの発起人の一人に、

倉俣さんになっていただけた。

それはぼくにとってほんとうに、望外の喜びだった。



その後、倉俣さんとは、いくつかのパーティーでお会いした。



倉俣さんはパーティーが苦手なようで、

いつも壁にもたれかかって一人ビールを飲んでいるので、

彼を探すのは簡単だった。



ぼくもパーティーが苦手なので、

お会いすると、いつもふたりでビールを片手に会話させていただいた。



あるパーティーのとき、

ぼくは、前々から思っていたことを口に出した。

どうしても抑えられなくなっていた。



「倉俣さん、お願いがあるんですが」



「はい、なんですか?」



「じつは・・・、

ぼくの蕎麦打の、道具一式をデザインしていただきたいのです」




ものすごいことを、ぼくは口に出していた。


世界的なデザイナーに対して。


きっと、世界的な優しさで断られるだろうと覚悟していた。


すると、





「ぼくで、いいんですか?」






ぼくは一瞬、思考が止まった。


あまりに謙虚な言葉だった。




ああ、これが倉俣さんなんだ。




「はい、ぜひお願いしたいのです」



そこからは、まさに超一流デザイナーKURAMATAだった。



「加藤さん、蕎麦打って、最初はどうやってはじめるんですか?」



そうですね、まず木鉢で生地を捏ねて、

それを延し台で延ばし、

まな板で包丁仕事をします。



「ふーん。なるほど」



テーブルの上にあったナプキンだったかに、

すらすらとアイディアスケッチをし始めた。



それは、もう、

見ただけで、

世界のどこにもないものだった。



それがまさに今、

テーブルの上のナプキンの上にある。



ああ、世界の頂点に立つ人の感覚とはこういうものだ、と、

鳥肌が立った。



そして月日が過ぎ、ある日。



我が家に一本の電話が入った。

倉俣デザイン事務所の秘書の、伊東史子さんからだった。


待ちに待った、

デザインの試作品ができたのかと、

心がときめいた。




「倉俣が、亡くなりました」




この日、また一人、

ぼくが心の底から敬愛する人が、圏外になった。




しばらくして、

ぼくと女将のあいだに、新たな子どもが生まれた。



あのときと同じ衝動が襲ってきた。



どうしても抑えられない。

どうしても、どうしても。



倉俣さんの奥様に意を決して電話した。



倉俣さんの「史朗」を、息子の名前にいただきたいのですが、

というと、快諾してくださった。



一昨日、@ririkonoさんという、

twitterでご縁をいただいた方が黒森庵に来られた。



その日は、その時間は、まったりとしており、

@ririkonoさんとゆっくりとお話をすることができた。



@ririkonoさんはなんと、倉俣さんとご縁があり、

そして今も奥様とお付き合いをされているという。

そして、今日(2月2日)に、

倉俣さんの展覧会が始まったことを教えてくださった。

世界に56脚しかない、Miss Blancheが4脚も(!)集まるということも。



翌日、ぼくが展覧会に行ったことは、昨日のブログに記したとおりだが、

ぼくが展覧会場にいた頃、

自宅にはなんと、

倉俣さんの元秘書の伊東史子さんから電話がかかってきていた。

ぼくに展覧会の招待状を送りたいのだが、

住所がわからなかったので(引っ越したことをお伝えしていなかったのです)、

いろいろと調べたところ、新しい電話番号が分ったとのことだった。



いろいろなコインシデンス(偶然)が重なった。



ますます、倉俣さんとのアンテナが「圏内」になった。



なにかが、ぼくの中に生まれつつある。


それがなんなのか、


まだわからないけど、


きっとそれはこれからのぼくにとって、


きわめて重要なものになるのだと思う。



ありがとう、倉俣さん、


お元気ですか?




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