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鳴瀬一中へ、救援物資を届けに(宮城県東松島〜石巻被災地巡り2)

早起きをし、

ホテルで朝食をとりチェックアウトし、

となりのコンビニで被災地で食べる自分たち用のおにぎりを買う。



一路、宮城へ。


がんばろう東北.jpg


山形は初めてだったが、

じつにおだやかで、素敵な県だった。



なにせ、桜の木が多い。


山の景観も優しい感じなのだが、

そこここに、桜(山桜かな)が咲いているから、

新緑と、桜の薄ピンクが、なんとも目に優しい。

(ぼくの自動車はUVカットのガラスで、微妙なカラーが撮れませんでした)



息子ともども、


ああ、うっとり。



そうこうしていると、あっというまに、

仙台へ.jpg
仙台市。



しばらく走っていると、突然、景色が変わりだした。


仙台南1.jpg
一面瓦礫の、「元」田んぼ。

仙台南2.jpg
瓦礫の「山」


こころがざわつきだした。


たった数分前は、

ぼくらはまだ山に咲く桜を愛でていたのだ。



仙台南部道路から三陸自動車道を経て、

鳴瀬奥松島ICで降り、鳴瀬川を渡り右折、ほどなくして左手に鳴瀬第一中学校が見える。


鳴瀬一中武道館.jpg
その奥に「武道館」があり、


武道館.jpg
ここが避難所になっている。



自動車から物資を下ろし、室内に案内をしていただく。


たいへん清潔.jpg
たいへん清潔。


天気が良かったからか、

室内には数組のご家族がいらっしゃるだけで、

液晶テレビの音が一番室内を占領していた。



援助物資はきれいに整頓されていて、

一目でなにがどこにあるかが分る。


救援物資.jpg
救援物資2.jpg


野菜・果物.jpg
野菜・果物。


清潔な棚.jpg
薬、消毒用品、マスクなどもきれいに棚に整頓されていた。



ストーヴは、この広さで3台くらいだったかな。

ストーヴ.jpg



厳冬の東北で、3.11以後、

吹雪のときすらあった時期、

よくこのストーヴで乗り切れたと思う。



ご自宅が半壊程度のご家族は、布団などの寝具を持ってこられたが、

そうでない方々は、当時も今も毛布だけで寝ておられる。



ぼくらが東京で

「節電しましょう」

といってエアコンを切るのとは、まったく別の次元の寒さがここにはあっただろう。



枕もやっと、つい最近入手できたそうで、

それまでは、寝ても肩が凝って仕方がなかったという。



このコミュニティのまとめ役の菅原節郎さん。

東松島市議会議員でおられ、自らも被災された。

Yさんの従兄の方と、菅原さんが小学校の頃から同級生だったという。



菅原さん名刺.jpg
3.11BIFORE

菅原さん.jpg
3.11AFTER



とても歯切れの良い口調。


「コーヒーでいいですか?」

と、優しいまなざしでおっしゃる。



まさか。

そちらは被災されている。


さぞかしつらい避難生活を送られているだろうと想像していたので、

辞退申し上げると、



「インスタントですし、それくらい、だいじょうぶですから、ま、どうぞ」


と、コーヒーを入れてくださった。



一通りの自己紹介をしあい、

どちらからともなく、3.11の話しへとなる。



被災して初日から3日間は、まったくなにも食べ物がなかった。


はじめて配給されたものは、食パン一枚/家族。

家族4人だとすると、それを4等分したものが、

その日の一日の食事となる。


次に配給されたものは、フランクフルトソーセージだった。

配給された量を、被災した人数で割ると、

一本を20等分したものの一切れが、一人分。


やっとおにぎりが配給されたが、

いつ作ったのか分らないほど固く、

それを無理に食べた方の何人かはお腹をこわした。



食事に関しては、最近になってやっと安定供給されてきた。


おにぎり一個。.jpg
今日の朝食のおにぎり。


昼ご飯。パン一個。.jpg

牛乳.jpg
今日の昼食の、おかずパンと、牛乳。


夜は、弁当.jpg
今日の晩ご飯の、弁当。



50日を過ぎているが、その間に入った風呂は2回。


洗濯機は、最近入手できたので助かっている。


パソコンはNTTからの貸し出されたものが使える。


固定電話は4回線ある。



義捐金は、いまだに一銭も受け取っていない。



「明日の10万円」でなくてもよいから、

「今日の一万円」を、今すぐにでも支給してほしい。



みんな、なにをするにもお金がない。

身分を保障するものも、通帳も、印判も、なにもない人々がたくさんいる。

カードを持っていても、ATMが機能していなかったり、

もしたとえ機能しているATMがあって、カードを持っていても、

そこへ行く交通手段がない。



大きな避難所は、マスコミもくるし、ボランティアも集まるが、

小さな避難所は、なかなかそうはゆかない。

鳴瀬一中の被災者は40人弱の、小さな避難所。

そういうところがたくさんある。




地方の生活に、自動車はなくてはならないものだが、

今回の津波は、それをすべて持っていってしまった。

3.11以後、軽自動車の価格は急騰し、

さらにほとんど入手できない状況になってしまった。

(これは少しずつ解消に向かっているような印象ですが)



今は、自転車はとても助かる。



こうした情報をお話しくださった。



ぼくが、とくに強調したいのは義捐金だ。


ものすごい額の義捐金が、すでに日本には集まっているはずだ。

義捐金全量が把握できなくても、

菅原さんのおっしゃる

「今日の一万円」

早急に対策をしてもらえないのだろうか。



このようなお話しが一段落し、

3.11本来の話しへと自然と流れができ、

菅原さんご自身が、ぽつりぽつりとお話しをされ始めた。

ぼく一人のメモリにとどめておくのは良くないと思い、

ここに、

菅原さんの、3.11の体験談を、

聞いたままをお伝えしたい。



拙い文章で恐縮だが、ぜひご一読いただきたい。

ご本人の承諾を得ました。



菅原節郎談:

私は市役所で会議をしていて、そろそろ終わるな、というときに地震が起きました。


家が心配なので、すぐに自動車に乗り帰ろうとしたのですが、

道路が大渋滞だったり、ひび割れで通れなかったりで、

いつもだったら15分くらいで帰れるところを20分くらいかかりました。


家に着くと、だれもいませんでした(奥様とご長男)。


(中略)


車に乗って避難したが津波が迫ってきて、

しまいには自動車が浮き上がってきた。


これはもうダメだと思い、ドアを開けようとしたが、水圧で開かない。

でも、そういうときは出るんですね、力が。

「火事場の馬鹿力」ってやつですね、

なんとかやってみたらドアが開いたんです。


体が水に浸かりながら、手で漕いで道を進んだら、

友だちの家がありました。


もう逃げ切れないと思い、

その友だちの家でしのぐしかないと玄関へ向かいました。



ドアがすでに開いていたので、

なんとか二階まで上がり、そこで津波が過ぎるのを待ちました。

一波はしのげましたが、となりの家が流されてきて、

どかんとぶつかったんです。


ほんとうにもうだめかと思いましたが、

なんとか助かりました。


何波かの津波をやり過ごすことができましたが、

ここにずっといることは危険と判断し、

近くの漁協に逃げ込みました。


そこには30人くらいの人間がすでに避難しており、

その日は、そのままそこで明かしました。

全身ずぶ濡れ、着替えももちろんなく、ものすごく寒かったですね。


妻と息子はは指定避難所の野蒜(のびる)小学校に避難していましたが、

そこが津波に飲まれました


終了:




「そこで、私は妻と息子を亡くしました」




それまでのはっきりとしながらも優しい口調はそのままに、

淡々と語るその言葉に、

ぼくは体が震えるのを感じた。



「娘と、私だけが残りました。

でも今度はその娘は、被災した翌日から39度を超える熱が出だし、

それが何日も続き、病院に行っても理由が分らない。

いくらなにをしても下がらないので救急車にお願いして、

べつの病院で見てもらったところ髄膜炎と診断され、すぐに入院しました。

おかげさまで完治しましたが、今は親戚が茨城におりますので、

そこに疎開させています」


「でも、茨城は茨城で、放射能が・・・」


「はい、そうなんです。なので近々に呼び戻そうかと」



優しい目つきが、やや赤みを帯びだし、

言葉がわずかに途切れる。



「この歳になってね、きびしいですよね。

息子がいれば、こう、


『一緒に頑張ろうな』


と言えますが。


一人で頑張れっていっても、ねぇ、難しいです。

今はまず、この避難所をなんとかしなければなりませんし、

でもここもいずれは、みなさんに巣立っていっていただかなければなりませんし、

もちろん、私も、なんですが。

私はできるだけがんばってみなさんが巣立ってゆかれるのを確認して、

ここを閉められればと思います」



さらに、こうも話された。



「亡くなってしまったものは仕方がないのですが、

いま、なにがつらいって、妻・息子たちの遺品がなんにもないのです。なんにも。

これは、ほんと、きびしいです」



すべてを津波がさらっていった。


人生というハードディスクが、一瞬のうちにクラッシュした。



すさまじい津波の被害にご自身自ら遭い、

奥さまとご子息をなくし、

傷心癒えぬまま、

お嬢さまを「疎開」させ、

それでも先頭を切ってここを運営し、

コミュニティの平和を維持されている菅原さん。



それも、明るく。



ぼくは来てよかった。



彼のために、

こちらのみなさんのために、

今後もなにかできることを援助させていただこうと決意した。



いろいろとお話をうかがっていたらあっという間にお昼をまわった。


では、そろそろおいとましますと告げると、


「どうですか、一緒にお昼でも」


とおっしゃる。


コーヒーだけでもたいへんだろうに、

まさか昼ご飯をいただくなんてとてもできない。

そのためにぼくらはおにぎりも持ってきたし。



ぼくらの気持ちを伝えると、

そばにいらっしゃったもう一人のスタッフの方も、


「もしよろしかったら、ほんとに、ぜひどうぞ」


と、もう一度、おっしゃる。



そこまでおっしゃるので、それならと、

ぼくと息子は再びお言葉に甘えることにした。



「食事といっても、インスタントの焼きそばですが」


「ああ、もちろんよろこんで」


「じゃ、ちょっと『調理』しますので。ま、お湯を入れるだけなんですけどね」



と茶目っ気たっぷりに、


「調理しましたよ」


と持ってきてくださった。



で、3分、待ってくださいね、

と言われ、

ちょっと早いけどそろそろいいかな、と思って

ふたを開けようとしたら、


「もうちょっと、かもしれませんよ」


とやさしく釘を刺された。


温厚だけど、シビアなところはシビアだ。



で、菅原さんがOKと言われたところでふたを開け、

ソースをまぶして、


ペヤングソース焼きそば.jpg
いただきます。



あ、どんぴしゃり。


さすが、『調理のプロ』だということがわかった。



するする、ぱくぱく、

ああ、おいしい、

ごちそうさまでした。



このソース焼きそばは、

涙が出るほどおいしかった。

一生忘れないな。



食べ終わってから伺ったこと。



余裕がなければもちろんできないが、

ご自分たちと一緒のものをボランティアの方々にも召し上がっていただいて、

状況を共有できれば、より一体感がうまれるということだった。



それは、たしかにそうだと思った。

素晴らしいことを教えていただいた。

ありがとうございました。



さ、ほんとうに今度は行かねば。


みなさんに別れを告げて、

ぼくと長男は被災地を巡ることにした。



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