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突き詰める、ということ。 [こころのなかの、こんくらい]



ぼくは、子どものころから手先を使ってなにかを作ることが好きだった。




バルサを切り、角を紙ヤスリで丸め、接着剤でくっつけ・・・、


ああ、うっとり。



プラモデルを作るのも好きだった。


塗装をするのもおもしろかった。




接着剤のにおいも、塗料のにおいも、


それは「臭い」ではなく「匂い」だった。



うっとり、うっとり。





そんなぼくが、猛烈にのめり込んだ遊びに


「スロット・カー・レーシング」


というものがあった。



簡単に言えば、1/24サイズのプラスティックの自動車にモーターが付いていて、


それを「サーキット」といわれるコースで競争させるというものだった。


「ミニ四駆」というものがあるが、その先祖のようなものだ。




c157_1.jpg
当時有名だったCOX社製のキット(シャシーはなんとマグネシウム・ダイキャストだった)。


産まれたときから、自動車が好き(ほんと、きっとそのくらい好きだった)、


ものを作るのが好き、


モーターとか電池で、動くものを作るのが好き、


塗装も好き、


そういうぼくの好奇心をすべて注ぎ込めるもの、


それがスロット・カー・レーシングだった。




当時ぼくはまだ小学6年生だったからあまり盛り場に出入りできず、


それでも母は物わかりがよくて、


「母同伴」


で、サーキット場に連れて行ってもらった。




やがて自分が住む街の駅前にサーキット場ができ、


学校が終わるとそこへ入り浸っていた。




話しが見えてこない?




百聞は一見に如かず、こういうものです。(1:10秒あたりから、説明があります)



ひとより速く走らせるためにはタイヤのセッティングが大事で、


スポンジタイヤをあの手この手で路面に吸い付くようになじませる。


この作業があって初めて、強力なモーターを駆動力として使える。


そのモーターを、秋葉原へ行って何種類ものφ(線径)のホルマル線を買ってきて改造する。


ドリルを使って、モーターのコアに穴をあけ回転バランスをとる。


オイルレスメタルブッシュから、ボール・ベアリングの軸受けに交換する。


サスペンションシステムを考え、


シャシー(フレーム)を設計し、


真鍮パイプを切り、曲げ、ハンダ付けして製作する。




それはほんとうにぼくにとってのワンダーランドだった。




無から一台の自動車を作るようなプロセスを味わえ、


しかもそれを操縦するドライバーにもなれ、


並みいる大人たちとハンディキャップなしで戦えるのだから。





それは中学を卒業するくらいまで続いたが、


でも、同時並行でBEATLESの洗礼を受けていたぼくは、


やがてギターを手にし、コピーをするようになり、


それともうひとつ平行して今度は、


BEATLESを聴くためのオーディオの世界にのめり込んでいった。




横道にそれそうなので、話しを戻すが、


この、スロット・カー・レーシングは、


ぼくの手先の、そして思考の「基本の基」となった。





そのスロット・カー・レーシングの、最先端が、



これです。(0:55秒からレースがスタートします)




もはや凄まじい進化で、


たしかにものすごく速いことは速いのだけれど・・・・・、


個人的には、まったく魅力のないものになっていた。




こんなに速くて、なにが楽しんだろう、って。




速さに快感を求めていたぼく、の、はずなのに。





本物の自動車レースの最高峰である「F-1」も、相似象といえるかもしれない。


レースカーの性能は毎年毎年どんどん上がってゆき、


ウィニング・コース取りはほぼ一車線しかなくなり、


抜きつ抜かれつ、などという醍醐味がすっかり失われてしまった。


勝ち負けが、相手の車のメカトラブルだったり、


ピット作業に重きが置かれるレースなんて、ぷい、だ。





テニスもそうだ。


筋力を極限まで鍛え上げ、


コンピュータシミュレーションで設計されたカーボン繊維のラケットによって、


「ビッグ・サーブ」


といわれる、キャノン砲のようなスピードで打ち込むことができる選手が、


試合で有利になってゆく。


「ラリー」といって、お互いが何回も打ち合い、


心理戦も含めて、だんだんと相手を追い詰めてゆくというようなストーリーは、


あまり観られなくなってしまった、ぷい、ぷい。





常々思っていることがある。




人というのは、どこまでも限りなくなにかを追い詰め追い込んでゆく存在なのか?



極めることが大事なのか?





そう、現代社会はとかく「競争原理」を持ち込むが、


それをエネルギーとして発達する事象の行き着くところは、どこなのだ?





幼稚園・保育園でも、


小学校でも、


中学でも、


高校でも、


大学でも、


社会人になっても、


まだとなりの人と競い続ける、


これが人間の本来の姿だろうか?




競うことが好きな人は確かにいるだろう。


そういう人は、おおいに競えばよいと思う。


でも、


競わないという選択肢もあってよいのではないだろうか。




この世は弱肉強食だから、それじゃ生きてゆけないという。


でも、お腹がいっぱいのライオンは


目の前に獲物が現れても猟りはしない。





ライオンのみならず、動物は一切の備蓄をしない。


向こう一年分の食料を冷凍貯蔵するなんてこともしない。


貯蔵しすぎて、古いものから食べるなんてこともしない。




そして彼らの営みからは、一切の公害が出ない。





ぼくら人間の生き方って、


常に「仮想敵」「仮想ライバル」を作ってそれを目標にして、


負けると死ぬぞ、勝ち続けろ、


競争原理が働くからこそ科学も進歩し、経済も発展し、


生活も豊かになるといわれ続けてきたような気がする。




でも、ぼくは


元旦におめでとうと言ったら、


すぐに成人式になり、


豆をまいたら雛祭り、


卒業式、入学式、入社式、


それが終わると端午の節句・GW、


梅雨が終わったと思ったら夏休み、


ああ、もう秋だと思ったらクリスマス、


それを過ぎると、ゆく年くる年、


こんなに早い1年は、もううんざりだ。





進化・進歩は、もういい、


ただ自然に生きたい、


自分のサイクルで生きてゆきたい、


というのは後ろ向きな考えなのかな。






ぼくは、


これからの世界で、


じつは大事なことなんじゃないかと感じ、


ブログのタイトルを


「こんくらい」


としている。




まぁ、このくらいでいいんじゃないの、


とか、


マニュアルもないし、いいかげんみたいだけど、


やればピシッと味が決められるくらいの、


ゆるめの勘、


とか、


そんな感じかな。




ぼくの気持ちは今も変わらず、


これからもきっと、


「こんくらい」


に行きてゆくのだろうと思う。




敵も、ライバルも、ぼくはいらないな。




しいていえば、


女将(妻、ね)と愛し合って生きていた時のような感覚を、


これからもこころに抱いて生きていたい気がする。




鉄拳 振り子  Music by MUSE

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