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文明の進歩、と、ぼく。 [好奇心]


先日、ぼくが子どものころに遊んだ、


「スロット・カー・レーシング」


の、進歩というか、なんというか、


その激しさぶりをブログに書いた



その後も、ぼくはいろいろ考え続けている。



進歩、って、なんだ?



って。


学生時代、


そう、たぶん22〜3歳の頃だったと思う(加齢につき、違うかも)、


Denny's(デニーズ)が、武蔵野美術大学近辺にできた。



ぼくらはよく授業をさぼって、


いくら飲んでも一杯分の料金のコーヒーを飲んでは話し続けた。



それも魅力だったが、


一番の魅力は朝食セット・メニューだった。




還暦近い方々、覚えているだろうか?




目玉焼き、ゆで卵、ポーチド・エッグ、スクランブルエッグ、オムレツ、


どれでもチョイスができた(と思う)。



しかも、それを「たまご何個で作るか」というチョイスができた(と思う)。


しかも、ハムか、ベーコンか、ソーセージのいずれかをチョイスできた(と思う)。


しかも、ベーコンの焼き方もチョイスできた(と思う)。


しかも、たとえば目玉焼きをチョイスしたとしたら、


それを、


「よく焼くか」「半熟に焼くか」「両面焼くか」


までオーダーできた(ような気がする)。


パンにするか、ライスにするか、


なんとパンケーキ、ワッフルにするか、というチョイスまであった(と思う)。


ハッシュブラウン、フレンチフライも選べたような(気がする)。




そして、しかも、おいしかった。




そうしてはじまった「Denny's」、


今の若い人たちにそれを話したらどう思うだろう。




当時を知るぼくにとっては、


今のDenny'sはまるでちがう店だし、まったく魅力というものを感じない。




これだけをとって


「進歩とは?」


というつもりはないけど、でも、


これを進歩というのだろうか。





携帯電話がこれほどまでに普及する前は、


どこもかしこも携帯電話は


「0円」


だった。



でも、これを子どもにどう教えたらよいのだろう。



最先端の技術の粋が集積された商品が、


「0円」


なのだ。


「進歩」という概念を、子どもたちにどう教えたらよいのだ。





これももうずいぶん前の話しだけど、


妻(女将)がなにしろ音楽(POPS)が好きで、


片っ端から録画し、さらにそれをもう一台のビデオで編集したりしていた。


ヘビーユースだから、壊れるのも早かった。


その度に修理を依頼し、自宅に直しにきてもらっていた。



あるとき、そのサービスマンが(もう仲が良くなっている)、


「お客さまみたいに、こういう機種を直して使っていただけると、

直すほうも直しがいがありますけど、

最近の機種は、もう、なにからなにまでペナペナで、

見ただけで直す気持ちが萎えますね」


といっていたのが、もう10数年前のことだ。


直すんだったら、新しいのを買ったほうが安いし、と。


それでも最後の最後まで、直して使っていた。




ぼくは子どもの時代から親から、


「ものは大事に使いなさい」


といわれて育った。


それは今も変わらない。




ものに愛着を持ち、


いつまでも大事に愛おしみ、使い続ける、


そういうスタンスで今も生きている。



でも、世の中はそうじゃない。





これもちょっと昔の話しだが、


我が家のプリンタが壊れ、修理依頼の電話をすると、


「我が社では修理ではなく、事情により戻ってきた商品をメンテナンスし直したものを、

交換させていただいております」


という。



事情というのは、他の、やはり故障した商品の部品交換をし、


メンテナンスをし、OKが出たもののことを言うらしい。


新品ではないが、傷もたぶんほとんどない「新品同様」だという。




でも、ぼくは得心がゆかなかった。


ぼくは、一度自分で購入したものに対しては


機械であろうとなんらかの心の感情移入がある。


だから、埃を取る。


だから、磨く。


だから、メンテナンスをする。




それでも壊れた時は・・・、


普通に考えれば修理、だろう、と思っていた。




ところが、


「どこの他人が、どのようにして使ったかわからないものを代替品とする」


と一方的に言われた。


それしか方法がない、と。



友人にその話しをすると、


「それって、まだ良いほうだと思うよ。ぼくなんか修理に1ヶ月待たされたから、

それにくらべりゃ、数日で直ってくると思えば」



このとき、ぼくは時代が変わったと思った。



個人の「所有」ということの概念が、


どんどん崩れてゆくような気がしてくる。





それはデザインにも現れてきている。



いまのiPhoneに代表されるデザインは、


今やどのメーカーも横並びだ。


それはそうだと思う。


ぼくは今の時代、デザイナーでなくて本当にほっとしている。


液晶画面しかない物体に、どうデザインの付加価値を付けろというのだ。



あ、ちょっとテンションが上がってしまった。



でも、もはや、デザインでの差別化ということの意味が


あまりない時代に突入しているのはまちがいないと思う。





ぼくが大好きな自転車の世界、


あるいは自動車の世界でも、


レンタル、ないしは共同使用、という概念が生まれつつある。



自動車のデザイン、そのステータス、乗り心地、加速性、革の匂い、


それらが


「二の次」


になるかもしれない時代に、ぼくらは生きている。





洋服はすでに


「UNIQLO」


がそうした感覚で商品を発表している。



適当に嫌みがなく、そこそこ着やすく、しかも安ければ、


だれだって


「これで充分」


と思うのではないか。






でも、それはきっと、ちがう。



自分という人間に個性がある限り、


自分を世の中になんらかの形で表現するのが、その人本来の生き方なのだと思う。



自分が着たいものは、自分で作る。


そういう時代が来るといいなと、ぼくは思う。



自分が欲しいものは、自分で作る。


そういう時代になるといいなと、ぼくは思う。



企業に頼らないと生きてゆけないというのは、


どこか違うんじゃないかと、ぼくは思う。





今の学校教育では、個性を伸ばすということに関して消極的だ。



でも、本来はだれもが個性だった。



だれもが自分の意見を持っていた。


持っていて当然なのに、


個性を表現しようとすると、叩かれた。





みな、ひとつのムラ社会のように同じ意見を共有することで、


自分のアイデンティティを消してもなお、楽に生きる道を選んだ。




そうしていつしか社会は歪み出し、


人のこころも歪み出した。





原点に戻って、考えるとき。



ぼくはそう思って、今を生きる。





"Pipe Dream" - Animusic.com



ここにある音源は、すべて「元々ある楽器」の音源に基づいて作られている。


それがなかったら、この作品は生まれていなかっただろう。




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