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南の島に雪が降る



南の島に雪が降る。


そんなばかな。


というような題名の本を、

父は昭和36年に書いた。



南の島に雪が降る 表紙.jpg
初版表紙


本はベストセラーになり、

映画化され、

テレビ化され、

そしてこの度は舞台化されることとなった。



今回舞台化を企画されたのは

ベッド&メイキングスという劇団。


うれしい限りだ。


つい先日、プロデュースを担当されている笠原健一さんから、

「一度劇団のメンバーに、息子さんからの父親像、そしてお父様の戦地での出来事などを、

思いつくままに語っていただけないだろうか。劇団員のみんなにとって劇作り・役作りのために」

というお誘いをいただいた。



一瞬迷った。


じつはぼくは人生において、

父との関係性をできるだけ語らずに生きてきたからだ。



父は役者・俳優としてはスターという地位を築き上げた人間で、

なにをするにしても父を語ることによって

「親の七光り」

と言われたくなかったというのが一番の理由だった。



それが故に、ぼくは一番身近な「俳優・芸能人」という職にはまったく見向きもせず、

父とは違う道を模索してきた。



もう一つ、

俳優業というのは有名にならなければ生活の安定はむずかしい、

しかし有名になれば家族のプライバシーはほぼない、

ということを子どもながらに感じていたからだ。



ぼくが子どもの時分、すでに父は有名な俳優だった。

だから、超多忙な日々だった。

だから、家にはほとんどいなかった。

だからぼくには、普通の一般家庭のように、

日曜日にはお父さんがいるということはまずなかったし、

連休にはどこかへ家族で旅行ということもなかった。



それでもたまにぽっかりと時間ができた時などは、

キャッチボールをしてくれたり遊んでくれることもあったが、

それはものすごく珍しいことで、

父親と一緒にいられるということはたいへん貴重なものだった。



ある日、千葉に潮干狩りに行こうということになり、

ぼくは前日からわくわくしていた。


当日、千葉に向けて父が運転を始める。

たぶん甲州街道のどこかだろうか、交差点で赤信号で停止していると、

横断歩道のだれかが

「あ、加東大介だ!」

と言うのがきっかけで、

周囲にいる人々が一斉に、ぼくの乗っている自動車めがけて走り寄ってくる。

あっという間にボンネットを取り囲み、

窓という窓は外の人の顔で埋まり、

窓を叩く人もいれば、サインをねだる人もいる、

まさにビートルズかマイケル・ジャクソンみたいにファンに取り囲まれる状態だった。



子どものぼくは、だからそういう環境は恐かった。

それでもなんとか潮干狩り場に到着したのだが、

到着したらしたで、今度は父を取り囲むようにあっという間に人垣ができてしまう。


ぼくと母は人垣の外。

楽しみにしていた潮干狩り。

でも母と二人であさりを取り続ける潮干狩りになってしまった。


さらに追い打ちをかけるように、

「お、あいつか。あいつだ、あいつだ、あいつが加東大介の息子だぜ、で、あれが奥さんか」

とかいう言葉が耳に刺さってくる。

その横で父はずっとサインをし続けている。

ワイシャツの背中、日よけの麦わら帽子、手ぬぐい、ハンカチ、

チラシ、他人の名刺、書けるものがあればなんにでも。



「いくらなんでも、そろそろいいだろう」

というくらいまで父はサインをし続けて、やっと「解放」される。


ぼくのもとに戻ってきてくれた父親は汗だくで、

それでもぼくの機嫌を損ねないようにと精一杯の愛情表現をしてくれた。

それがあったから今日まで生きてこられた。



その体型、顔立ちから、どうやっても変装が効かず、

遠くからでも識別できてしまうというところもあったろうが、

父との外出というのはたいていこういう感じだった。

当時の有名俳優というのはたぶん、多かれ少なかれそういう立場だったと思う。



だから子どもながらに、

ぼくはぜったいにこの職業を選ばないぞ、

みたいなところがあったかもしれない。



ただ、それでも小学生の時に、

これは両親に懇願されてだけど、映画に出演したことはある。



東宝30周年記念映画「忠臣蔵」だ。


忠臣蔵.jpg



その時の一つの売りとして「親子出演」というのがあったらしい。

松本幸四郎(八代目)さんと市川染五郎(現九代目)さん、

上原兼さんと加山雄三さん、

三船敏郎さんと三船史朗さん。

そしてなんと、父と、

なにも分からないぼくまでも親子出演させていただいた。



東宝撮影所.jpg
東宝撮影所にて。


稲垣浩監督直筆のサイン入り!.jpg
稲垣浩監督に演技指導をしていただいているところ。


監督の稲垣浩さんは当時成城にお住まいで我が家から歩いて3〜4分のところにあり、

ぼくも正月などには父に連れられて何回かお邪魔したことがあった。

その時の稲垣監督の雰囲気がたいへん優しく、

彼が監督さんなのだったらなんとかなるかもしれないと子どもながらに思い、

両親の申し出を受入れ、出演させていただいた。

ちなみにこの時の出演料で、たしかぼくはランドナー的自転車を組んでもらった記憶があリ、

それが黒森庵の今に繋がっているのだから、不思議なものだ。


セットにご挨拶に伺った時の写真。.jpg
八代目松本幸四郎さんにご挨拶に伺った時の写真。

ぼくは大石内蔵助の次男役で、

長男役は現九代目松本幸四郎さん(当時市川染五郎さん)、

母親役は原節子さんだった。

なんという豪華さ。

今となっては良い思い出であります。




そう。

でも。

ぼくは一人っ子で父親と遊びたい時には、ほとんど親がいない、

しかもいる時はいる時で、雑誌社の取材が多数入っていたから、

それにもぼくは引っぱりだされていた。



最高に怒ってますっ。.jpg
雑誌取材.jpg
雑誌取材2.jpg
小林桂樹さんご家族と。.jpg



これらはすべて雑誌記事に使う写真。

朝から着る洋服のチェック、髪の毛をきちんと整えたり、

普段とは違うテンションが家の中を漂う。



最初の一枚は、父の仕事が遅くなり、

夜の撮影になってしまい、

ぼくは寝入りばなを起こされ、寝間着を脱がされ、着物を着せられて、

フラッシュをバンバン焚かれるその中で、

カメラの前で笑ってくれと言われ、むくれている。


二枚目は、髪の毛に油かなにかを付けられたような気が。

不機嫌な中、なんとか微笑みを絞り出している。


三枚目、シャフトの長さが合わないゴルフなんて、

ちっとも楽しくなかったもん。


四枚目の写真に写っているのは小林桂樹さんご家族。

小林桂樹さんは、ぼくは大好きな方だった。

同い年くらいのお子さんがいらっしゃったということもあったんだろうけれども、

やはりたいへん優しく、そして可愛がっていただいた。

だからこのスチル写真を撮っている時でも、

小林さんの優しさがあったから我慢できていたかもしれないと、

今この写真を見ながら回想している。

だって、この写真、昼から夜まで半日続いてやっとOKが出たのだから。



そんなこんなの、ぼくの子どもの頃の思い出。



そんな中でも一際(ひときわ)記憶に残っているのが、

南の島に雪が降るという映画です。



「南の島に雪が降る」完成記念パーティー.jpg
「南の島に雪が降る」完成記念パーティー。



原作が父、主演も父ということもあったけど、

やはり題材として「戦争」を扱ったということ、

そして父から

「どんなことがあっても、戦争はやってはいけない」

という話しを、この映画化をしているときに聞いていたからです。



父はまさに地獄のような環境で何度か死にそうな体験をし、

それでも生きて内地(日本)へ帰りたい、

妻、家族に会いたい、

ばたばたと体調不良・怪我・栄養失調で死んでゆく仲間に、

少しでも生きる希望とエネルギーを分け与えられたらと、

ニューギニアで演劇を続けました。

生きて、みんなで国へ帰ろう、と。



その父の戦地での回想小説のような本が、

南の島に雪が降る

そして今回、それを舞台化してくださるのが

ベッド&メイキングスのみなさんの、南の島に雪が降る



彼らとお会いして、

彼らの舞台稽古を拝見して、

彼らの真摯な気持がびんびんと伝わって来ました。



彼らのことを話したい、

父のことも話したい、

「南の島に雪が降る」のことも話したい、

そんな気持が急に湧いてきました。




こうしたことがあって、

今回ぼくは父との関係をはっきりと示すことにしました。

そうしないと前へ進めないと感じたから。



で、父の代わりに言います。



戦争で幸せになる人は、ひとりもいません。


理由はなんであれ、


やってはいけないんです、


戦争は。




父 加東大介.jpg
父 加東大介


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